24歳、「教える仕事」に憧れている人生。Part②【END】

【前回の記事はこちら】

24歳、「教える仕事」に憧れている人生。Part① - i-kinjo’s blog

 

 おはこんにちばんわ。ぽかぽか陽気の日もあった先週とはうってかわって、沖縄にもようやく冬が顔を出してきましたね。季節の変わり目、みなさんも体調を崩さないよう、ご自愛ください。

 私はといいますと、ここ3日間は「鉄拳 タッグトーナメント2」というPS3のゲームに情熱を燃やしてました。

 

 ゲーム仲間兼家族の弟と毎晩遊んでいますが、そんな弟が「PS4の鉄拳飽きたからタッグトーナメント戦一緒にやってみない?」などと私に声をかけてきたのが全ての始まりです。

 

 格闘ゲーム初心者の私 VS ゲーム慣れしている弟

 

 勝てるわけもなく毎回フルボッコにされています。弟が接待モードでプレイしてくれないと勝てないのが悔し過ぎて、毎日空いた時間はコンボの練習に充てようかなとガチ勢に足を踏み入れる直前まで来ています。他にやることがあるのに。

 因みに使っているキャラは花郎ファラン)という韓国人のキャラで、テコンドーの使い手です。足技が殆どなのでリーチもあり、技の出も早いので私としては使いやすいのですが、構えが4つもあり、コマンドがとにかく多いのが難点。技によっては強制的に構えが変わるので以下略

 喋ると止まらなくなるオタクの悪いところがちょっと出てきたところで、本題に移ります!

 

そんなわけで、鉄拳トークからはじまった今回も、

IT College Okinawa Advent Calendar 2022 - Adventar

です。13日目でございます。

 

 今年2枠ももらってしまって、すみません。

 

 前回のお話がわかっていると、より一層内容についてきやすいかなと思いますので、未読の人は冒頭のURLからどぞ。

 

今回は、目次で言うと 4~6 のエピソードです。


Part① ※前回のお話だよ

1.自己紹介

2.はじめに

3.一人目の恩師:遅咲きだった国語の先生

Part② ※今回のお話だよ

4.二人目の恩師:誰にも媚びない美術の先生

5.三人目の恩師:芸術に対する情熱超えてマグマ溜まりがあった美術の先生

6.「憧れる気持ち」は強い

 

 さて今回からは、学問と芸術に揉まれていた高校時代に出会った恩師とのエピソードです。

 

 

4.二人目の恩師:誰にも媚びない美術の先生

 中学校3年生の時の三者面談。

 一人目の恩師である担任の先生が、私の成績簿をみて、こんなことを言います。

 

「テストの点数は国語以外、毎回赤点なんですけど、成績は何故か普通なんですよね」

 あ、なんかいま余計な一言聞こえた気がする。

 

 先生も疑問に思う私の評定平均は

中1 → 3.5

中2 → 3.2

中3 → 3.2

 あれ、本当だ。

 

 毎回20点以下だった数学と英語は勿論2。

 はんだごてで前髪が焦げた思い出のある技術も2。

 運動もできないし体力テストも3年間下のランク、しかも協調性皆無だったのに、体育も3がついてる。

 

 不思議。隣に座っている母親もなんで?って顔で私のほうを見てきます。いや、知らんがな。

 

「ほぼ毎日、きちんと出席していて、授業態度も良いからだと思いますよ」

 ほほう。

 

 じゃあ次、頑張らないといけないことは?

 

 勉強 (Study)。

 

 これでテストの点取れてたら、もう少し成績上がったのにね、みたいな話から、次の目標が決まります。そう、私が忌み嫌っていた大嫌いな「お勉強」です。

 

 高校へ進学するためには、勉強が必須なのです。

 成績なんて二の次。私の授業態度がどれだけよくとも、その人の学力が最も重要。

 

 席次もおしりから数えたほうが早かった私は、県内でも下から数えられる偏差値で、かつ好きだった絵の勉強ができるコースが存在する高校への進学を勧められます。

 勉強をしてこなかったがゆえに選択肢が殆どなかった私は、進路をそこに決め、あとは塾に通い、進研ゼミに入り、嫌々ながら、ゲームの時間に充てていた時間を勉強に費やして、お勉強と過ごす毎日でした。

 それでも、勉強に対して「どうせ今からやったって無理でしょ」と諦めを抱いていた私は、全く焦ることなく、本腰入れて受験対策をしだしたのは周りが受験でピリつき始めた3年生の9月下旬ごろ。

 

 国語は現状維持でこれ以上落とさないように。

 理科は元素記号から覚えていく。

 数学・英語もまず中1レベルから総復習。(一番この2教科が時間かかりました 笑)

 社会は都道府県、世界地図が全く頭に入っていなかったので地理は捨てて、大好きな歴史に全振り。

 

 さあ、半年もありません。どうしましょう。

 今まで勉強してこなかった自分自身を恨みました。

 好きなことだけできることが、あんなに贅沢だったなんて。

 

 嫌々ながらも勉強していくその中で少しずつ、自分のヤバさに気付き始めます。

 

 これは、やれるだけやっとかないとまずい。

 

 四の五の言わずに、とにかく勉強漬けの日々を送ります。

 勉強は嫌いだけど、自分だけ落ちこぼれは嫌だ!

 そんな気持ちで勉強を1ヶ月続けた時、ふと、スラスラ解けるようになってきた数式を見て、あれ、なんかわかるって楽しいかも。なんて思う瞬間が増えてきました。

 苦痛まみれになるはずだった受験勉強を通して、ちょこっとだけ、

「わかるようになるまでは大変だけど、わかるようになったあとは楽しい」

 そんな風に、勉強に対する意識がいい方向に変わります。

 

 そんなこんなで、努力の甲斐あって第一志望だったコースに無事合格できました。当時の倍率は2.5倍とかそこらだったような。定員40名でその倍率だったので、一緒に同じコースで進学を決めたオタク友達と合格発表日まで震えていた記憶があります。

 私は面接で質問された内容を飛ばしてしまい、面接官の先生に「もういいです」と言われた苦い思い出があるので、これで落ちたなら、その原因はあの面接だなと思っていました。

 

 入学が決まって嬉しい気持ちの反面、その高校の偏差値や、卒業後の大学進学率から、その高校を卒業して教職に就くのは無理だろうな、と、憧れていた夢を一旦、諦めてしまいました。

 

 別のなりたい職業を探しながら過ごそう。

 受験勉強の経験から、あんなにポンコツだった自分自身でも、何だかんだ「やればできる」事がわかったので、少しだけホッとして、やることやりながら、自分のペースで過ごそうと決意します。

 そう思って過ごした高校1年生の担任が、二人目の恩師になります。

 

 実は、先生になりたい、という夢は二人、仲の良い友達を省いて、親兄弟その他諸々、誰にも言っていませんでした。否定されるのが何よりも怖かったからです。自分で自分が賢くないのはわかっているし、進学を決めた学校だって、偏差値の低さでは5本指に入るほどの高校。

「そんな高校に進学しておいて、無理でしょ」

「勉強ができないお前には無理」

 そんな事を言われたら、今度こそ人生ログアウトしてしまう。と、本当に言い出すのが怖くて、私のことを否定するようなことは言わないとわかっている友人以外には話せず、胸の内に秘めていました。

 卒業式では、ゲームのキャラクターデザイナーになりたいと「この子ならそんな事思ってそう」という当たり障りのない範囲を言っていました。

 

 高校1年生の時の担任の先生は、そんな将来の夢について、伝える勇気を出させてくれて、教職の道へと背中を押してくれた、とても素敵な先生です。

 

 教職という夢を一旦諦めてしまった私は、じゃあ、どういう仕事に就きたいか決まっていないなら、選択肢は多くないと後々大変だな、と身をもって経験した事を反省として生かし、真面目に学問に取り組もうと心機一転します。ですが、私が通うコースは、芸術のなんたるかも勉強もしないといけないコース。在学中は学力だけでなく、画力も問われます。

 

 絵は好きでしたが、第一の壁として立ちはだかったのは「デッサン」でした。私が今まで好きで描いてきたデフォルメイラストとは全く要領の違う絵。しょっぱなで全然描けないうえに、一緒に進学したオタク友達が初心者とは思えないほどデッサンが上手だったので、周りからはその友人と比較対象にされ、また心を折られかけます。

 

「〇〇は絵が上手いけど、一緒にいる子はそんなにだね」

「勉強はできるみたいだけど、絵はそんなにうまくないよね」

 

 それが死ぬほど悔しかったので、受験勉強を通して学んだ「やればできる」精神とともに、放課後、特に用のない日は毎日残ってデッサンや絵の課題に取り組みます。担任の先生は、歯に衣着せずにものを言うタイプだったので、散々こっぴどくダメ出しをされつつも、必死に喰らいつきました。もちろん、中間テストの前は勉強もしっかりとこなして……

 

 そんな努力が報われたのか、絵の分野では入学してから半年間、絵と向き合った甲斐あって、高校総合文化祭という、高校生にとっての一大イベントで、優良賞を貰えるレベルの絵が描けるようになりました。

勉強では、評定平均は4.9。英語だけ相変わらず苦手で、4止まりの結果。それ以外は全て5。

 バス通学だったので、時間管理も気を付けるようになり、無遅刻無欠席無欠課の、今までの人生で感動するほどの優秀な記録を残します。親は、成績簿に書かれた名前が別の人のものじゃないかと何回も確認してました。実は私もしました。

 

 ここで、「やればできる」なら、今までできなかったのは「やらなかった自分が全て悪い」という事実に気が付きます。親が賢いと子供も賢いみたいな、ああいうのは全く関係ない。結局、できた、できなかったは全て自分自身のせいだ。という事です。

 

 じゃあ、入学時に諦めてしまった教職という夢も、別に卒業した高校とかは関係なくやればできるのでは。

 

 少し諦めかけていましたが、1年、他の道はないかと考えても考えても捨てきれなかった夢を、終業式の日に思い切って先生に話しました。

 

「教職って、就くの難しいですか?」

「難しいよ。私も2回、浪人したし」

「こんな私でもなれますかね?」

「成績も勤怠も良いわけだし、こういう普通の努力を怠らないゐまりならなれるよ。というか、気になってるならぜひ挑戦してほしい」

 

 普通の努力、と言うのは、気分で休んだり、遅刻をしたりせず、やりなさい、と言われた課題に真剣に取り組み、わからないならわかるために努力をする、わかるまでやる、そういう、社会に出た大人に共通して求められる努力だと言っていました。

 

 その時、まず自分の夢を否定されなかったことに安心して、その後、あなたならなれる、という励ましにも近い言葉に、再度、教職になりたい、という気持ちが再熱します。

 そして進級した2年生からは、教員採用試験を受験するために必須である「教員免許」を取得できる、沖縄県立芸術大学を目指す日々が始まりました。

 

5.三人目の恩師:芸術に対する情熱超えてマグマ溜まりがあった美術の先生

 

 自分のなりたい道を確信したあと、あとは目標に向けて受験対策を進めていこう!と前向きに準備をしていきます。

 

 高校2年生に進級し、途中から産休・育休のため担任の先生が、副担任をしていた非常勤の先生に代わりました。結局、代理だったはずの先生は、3年生の卒業まで私たちの担任を続けることになり、この先生との出会いは、私の作品作りに対する意識を大きく変化させてくれるきっかけになります。

 

 その先生は、だいぶ明るい人柄で、親戚のお姉ちゃんくらいの軽いノリで生徒と接する先生でした。そのため、うちのコース以外でも人気のある先生で、そんな人気者が担任なのが少し誇らしかった記憶があります。

 そんなノリの軽い姿からは想像もつかないくらい、その先生は「作品作り」に対して凄まじい情熱を燃やす先生でした。

 

 卒業制作期間の中間報告会で、授業以外で制作を全くせず、推し活や楽しいことばかりに現を抜かしていたクラスメイトが、とんでもねえくらい手抜きな絵を持ってきたとき。

 

 その作品、3年間の集大成としてみんなの作品と並べた時にどう見られると思う?

 明らかに見劣りしてるって自分で気づかない?

 分からないなら、その感性だいぶやばいよ。

 描きたいものがあるなら描けば良い。作りたいものがあるなら作れば良い。

 本当に好きなら、自分の時間、お金、睡眠時間、何かを犠牲にしてでもやるでしょ? 

 そこまでできないなら、あなたが勉強してきた3年間の熱意ってそれっぽっちだったってことじゃない?

 

 そんな事を、はっきり言えちゃう先生でした。

 

 「何かを犠牲にしてでも」の部分で賛否分かれそうな先生の持論ですが、良い作品を作りたいなら、それなりの時間をかけないといけない。偶然短期間で名作が生まれることなんて滅多にない、という続けてのお話から、作品に対してそこまでストイックになれる先生の姿は、同じ芸術を生み出す道に進む人間として、徐々に憧れになりました。

 

 話は戻って、高校2年生の頃。

 私は既に先生になりたいと公言していたので、先生もそのつもりで私に指導をしてくれていました。先生は沖芸(沖縄県立芸術大学は略して沖芸と呼ばれています)の卒業生だったので、芸大受験のあれこれを教えてもらいつつ、デッサンを見てもらったり、作品作りの相談に乗ってくれたり。

 

 途中、私が家庭の事情で自分の身の回りの費用は自分で稼がないといけなくなり、アルバイトと学業を並行して進める事を伝えた時には、私の健康面を心配をしつつも、

「とはいえ、学業が優先だから、時間を理由に作品に対して妥協することは許さない。時間がないなら趣味の時間削るなりして、完成するまで時間を捻出すること。先生っていう教える立場の人間になる道に進みたいなら、なおさら妥協するな」

と、励まし?の言葉を送ってくれたのは、いい思い出でもあり、その言葉は、今でも私が作品を作る上でのマインドとして、強く残っています。

 

 とは言え、アルバイトと学業の両立は思っていたよりも結構しんどくて、疲弊してしまい絵が描けなくなってしまう期間がありました。

 何を描いているのか、何のために描いているのか自分でもわからなくなり、目から鼻から色んな液体を垂らすこともざらにありましたが、

「描けば終わるから」

「この苦しい時期にしか描けない絵があるんだよ」

「芸術の世界には正解なんてないから、万人に上手って褒められる絵を描こうとしないで、筆の動くまま描けばいいよ」

 そんな先生の励ましもあり、筆は折らずに粘り、その結果、県代表として広島やシンガポールへ研修に行ったり、貴重な経験をすることができました。

 

 作品へ向ける熱量、スランプに陥った生徒への寄り添いかた。

 その全てが、私が先生になった時にこうありたい、と思う理想の姿そのものでした。

 

 

6.「憧れる気持ち」は強い

 中学生・高校生の頃といい、共通して「こういう人になりたい」という「憧れ」が、何をするにも私の原動力になっています。

 

 勉強が全くできなかった中学時代も恩師の姿に憧れて、教員という職業に興味を持ち、高校時代は、一度は諦めたものの、再度目指すようになり、恩師の姿にまた憧れて、と。

 そして結局、沖芸ではなく専門学校へ進学した私ではありますが、その専門学校でも素敵な先生方と出会い、「教える仕事」にまたまた憧れ、学ぶことが盛りだくさんなイバラの道を進む決意をし……

 

 私の人生は、結局「憧れ」から始まって、今もそれが続いています。

 

 この仕事じゃなかったら、今頃何の仕事についてたのかな、なんて時々考えてしまう時もありますが、心の中に「憧れ」である恩師たちが存在している限り、結局私は、また「教える仕事」に憧れて、教育系の仕事に転職するだろうな。と思います。

 

 それくらい私にとって「教える仕事」は楽しい仕事です。

 

 前回の話の冒頭で、学校についていけない自分なんて、って悲観しなくても良いんだよ、という言葉を書きましたが、

「先生って言うお仕事たのしーー!」

と先生としてお仕事をしているこんな私だって、中学時代、勉強もできない地味で根暗なポンコツでした。

 高校では頑張ったかもしれないけど、PCもろくに触れないまま専門学校に進級して、タイピングなんて下から数えたほうが早いくらい遅かったし、PCの知識が皆無過ぎてついていけない授業ももちろんあったし、なんなら中学時代の悪夢再び……的な感じで、わからないことを頭に詰め込むのがしんどくなってきて、課題をまともにしない時期もありました。(ごめんなさい)

 

 でも、時間が経って、理解するためのパーツが揃った瞬間に、

「お前は、あの時の……!!」

 なんて、理解できる瞬間が来ることもあります。

 

 今、無理やり理解しようとしても、わからんもんはわからん、でいいんです。

 

 でも、一つだけ、忘れてほしくないのは、

「わかんないから、勉強しなくても、いっか!!」

 これだけは絶対にダメです。

 

 人生で経験すること・学ぶことで、無駄なことは何一つありません。

 無駄なのは、嫌いな人間から聞かされる自慢話くらいだと思ってください。

 

 

 頑張った人が、頑張った分、きちんと報われる1年になりますように。

 

 

 

 それでは、

 未だに「教える仕事」に憧れ続けている私のお話は、これにて終了となります。

 最後に余談ですが、心理学的な用語で、憧れている人の真似っこをすることを「モデリング」と言うそうです。私が教職に興味を持ったお話の流れが完全にその心理学的なモデリング行為で、3DCGに興味を持つ前からモデリングしとったんか、己。と笑っちまいました。

 

 ほぼ自分語りにも関わらず、2週にわたって読んでいただいて、ありがとうございました。

 アドカレのために開設したブログではありますが、せっかくなので、気が向いたら、ちまちま更新したいと思います。

 それでは、またどこかで。

24歳、「教える仕事」に憧れている人生。Part①

ブログ形式で書くなんて初めてなので、タイプする指がめっちゃ震えてます……( ;∀;)

 

おはこんにちばんわ。初めましての方は、どうも初めまして。

専門学校ITカレッジ沖縄のゲームクリエイター科1期生・ゐまりです。

ここ最近はとあるMVのコラで使われていた宮本浩次さんの「冬の花」という曲にドはまりしております。

 

早速ですが、

IT College Okinawa Advent Calendar 2022 - Adventar

の6日目、枠を頂けたので、筆を執ります。

 

事前の注意事項としては、めちゃくちゃ長いです、すみません。

10,000文字を超えてもなお書き終わる気配がまだまだ遠くにあったので、2つに分けることにしました。

今回はPart①です。

Part②は、空いている枠があれば書きます。なければ来年書きます笑

お時間ある時に読んでいただければ幸いです。

 

「テーマは特に指定していないので、自由に書いてもいいよ!」

と、いう事で……

 

前回のアドベントカレンダーで、

書きたかったけど力尽きて書ききれなかったことにリベンジします!

 

勉強嫌い、運動なんてくそくらえ、ゲーム楽しい、お絵かき楽しい、好きな友達と一緒にいられればそれでいい。

好きなことだけをして、自由気ままに中学時代を過ごしていたポンコツな己が、ある出来事をきっかけに、

「教える仕事で生きていきたいと思った」ことを書き連ねていきます。

 

結局言いたいことは、

「やりたいことを見つけた人間は強い」

という事なので、今現在

「学校の授業についていけない自分なんて、人間として出来損ないなんだ……」

と不安な日々を過ごしている皆さん。

そんなに悲観的にならなくてもいいんだよ。

 

Part① ※今回のお話だよ

1.自己紹介

2.はじめに

3.一人目の恩師:遅咲きだった国語の先生

Part② ※次回に続くよ

4.二人目の恩師:誰にも媚びない美術の先生

5.三人目の恩師:芸術に対する情熱超えてマグマ溜まりがあった美術の先生

6.「憧れる気持ち」は強い

 

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