i-kinjo’s blog

職場のアドベントカレンダー専用

2025年 まだ厄年じゃないはずなのに

 誰に了承を得たのかはわかりませんが、どうやら2025年が終わろうとしているらしいです。あれれ、つい先日入学式が終わらなかったっけか?とかなんとか思っている間にも日は進み、次は12月の2週目に突入しようとしています。
 ところがどっこい、学校なんてのは4月からが年度始まりなので、終わりだとか始まりだとか、あまり実感が湧きづらいのが正直なところ。
 しかしながらここ数年は、このアドベントカレンダーの案内が来ると、あ、もう1年が終わるんだ、という実感がようやく湧いてきます。
 こう見えて文章を書くのは好きなほうなので、毎年のこのアドベントカレンダーを楽しみにはしているのですが、前述のとおり、1年が終わるのが早すぎて振り返ることもないな……と毎年ネタ探しに苦戦を強いられるまでが、アドベントカレンダーの醍醐味かもしれない、なんてことをふと思ったりしました。


 前置きが長くなりましたが、そんな一枠目は、色々あった一年を振り返ってみます。
 本文もめちゃくちゃ長いです。1万文字超えました。
 

  1. 久しぶりに旅行に行けた2月
  2. 奥歯を1本失った3月
  3. 腸がやられた4月
  4. 車のエアコンが壊れた5月
  5. 無断駐車してるじじいにひたすら車を傷つけられた5月~9月
  6. 大予言に怯えた7月
  7. 人生初のワイヤレスイヤホンに感動した8月
  8. 心臓に爆弾があるかもしれない8月
  9. 社会人7年目、初めて長期出張へ行った9月
  10. モンハンに再熱した11月
  11. Amazonの荷物が盗まれた11月
  12. 身内に不幸があった11月
  13. これ以上、悪いことが何も起きてほしくないとひたすら祈る12月

 

 

 関係者が主に目を通してくださると思うので念のため自己紹介もしておこうかなと思いましたが、端折ります。どなた?って思ったなら思ったで、知らない人のブログ読む感覚で読んでくださいませ。

 では早速、順を追っていきます。

1,久しぶりに旅行に行けた2月
 だいぶ久しぶりに、遊び目的で県外へ。目的地は大阪。
 人生で飛行機に乗ったのはこれが6回目で、完全プライベートとなると実は2回目だったりした。初めての県外は中学2年生の修学旅行で九州、2回目と3回目は高校生の時で、絵の勉強で国外と、県の代表で広島。4回目は初めてのプライベート旅行でUSJへ。5回目は社会人になって1年目、日帰り出張の宮古島。そして6回目は再び大阪。
 旅行も6年ぶりで、何を詰めればいいのかわからずにキャリーバックは前日に押し入れから引っ張り出した。どうもこの世の中には、遠出するときの準備時間が一番楽しいと言う人もいるが、私はその真逆のようだ。
 ちなみに旅行は楽しかった。モンハンの大狩猟展に行ったが、あれは行ってよかったと今でも思う。実は一度、間違えた日程のチケットを購入してしまい、慌てて買い直した。行くなってことなのかと再購入しながら悩んだが、本当に行ってよかった。
 ゲームに登場するモンスターの実寸大をVRで見たが、それはもう迫力満点で圧巻だった。一目見て「無理だ、勝てない」と戦意を失うレベル。架空の話とはいえ、自分よりも大きな身体の相手に挑むハンターの勇猛果敢さは、見習いたい。
 私のように最新作が初プレイの新規プレイヤーにも優しかった。にわかが、なんて冷ややかな目で見られることもなく、グッズもたくさん買って帰った。
 買ったのは良いものの、勿体ないと食べ渋っていたモンスターのプリントクッキーは、いつの間にか買ったことすら忘れていて、気が付いた時には賞味期限が2か月ほど切れていた。買っておいてなんだが、実はクッキー自体あまり好きではない。仕方がないので、姉と弟に食べてほしいと押し付けた。1枚も残さずにきれいに食べてくれた。ありがとう。
 道頓堀は人が多くてくさかった。そんでもって、GiGOのエスカレーターで理不尽にキレてきたあの男だけは絶対に許さない。あと4年は許さない。
 帰りの飛行機、隣の席に座っていた女の子二人組が「飛行機で酔う人とかいるのwww」と話しているそばで、私は酔って苦しんでいた。惨めな気持ちになったので、寝たふりで乗り越えた。中学生のぼっち時代を思い出す出来事だった。
 那覇空港から一歩外に出て、無事に帰ってこられたことの安心感は半端じゃなかった。やはり生まれ育った故郷は居心地がいい。空の広さも感動ものだ。公共交通機関が乏しいのは問題だが、架線越しに見える青空より、遮るものがないこの空が断然好きだ。この空は失われてほしくない。



2,奥歯を失った3月
 
3月と書いてはいるものの、話は2月末に行った旅行に遡る。
 2年前くらいから、口が歪んでいることに気が付き、メスを入れない方法でどうにかならないか模索していた。
 よく左で食べ物を噛んでいたため、なるべく左右バランスよく嚙むようにすれば少しは良くなるかと期待を込めて左右バランスよく使い始めたのが2月のあたま。銀歯が外れないように右側で噛むことを避けていたが、意外と銀歯ってのは丈夫なんだと、慣れるために右側で噛むことを増やした。
 旅行の際、飛行機の中で酔い止めのために常に飴を口に含んでいた。飴玉を噛んで食べる癖もあり、ぼりぼりと嚙み砕きながら食べ続ける。三角形のいちごみるくキャンディくらいなら硬度はさほどなかったため、定期的に左右入れ替えて噛み砕いた。
 その日以降、なぜか銀歯のかぶせものをしている歯が痛み出すようになり、タイミングを見て歯医者に行った。
 どこが痛むかという確認をしながら、レントゲンを撮影したり、歯茎の触診をされる。レントゲンを撮るときに口に布のような板のような何かわからないものを歯茎に当てるのだが、それが何気に痛かった。
 色々診てもらった結果、銀歯をかぶせていた歯の根っこが折れていることが判明した。
 心当たりしかない。絶対にあのいちごミルクを噛み砕いた時だ。あの時に折れたに違いない。
 目と歯は一生もの、という言葉があるように、失うことによる損失は大きい。しかし残念なことに、折れた歯を取り除く以外の選択肢がなかったため、歯を失うことが強制的に決定した。
 歯医者でできる範囲で抜歯をしてもらうことになったが、高校生の時に詰め物を入れた際、詰め物が漏れないようにと人工的な歯の枠が作られていたようで、その下には固定用のねじが入っていた。そのねじが、もしかするとあごの骨と癒着しているかもしれないとレントゲンを見ながら、お医者さんが言う。そうすると歯医者では手に負えないから、口腔外科で手術をしてもらうようにと、恐ろしいことを言われた。
 もう一つ問題が、私は昔から麻酔が効きにくい。運よく効いたとしてもすぐに効果が切れてしまう体質だったため、麻酔が必要な時はいつも多めに打ってもらっていた。
 今回の処置は、普通の人でも麻酔が効きづらいところに器具を入れるとのことで、恐怖に震えながら処置をしてもらった。大げさに言っているのではないかと疑っていたが、シャレにならないくらい本当に痛かった。
 やはりねじは骨と癒着してしまっていて取れなかったが、歯医者によるとそのままにしても大丈夫とのことだったので、そのままにすることにした。
 痛み止めと念のためにということで抗生剤を処方されたが、その抗生物質のせいで、4月はつらい思いをすることになる。


3,腸がやられた4月
 3月に歯医者から処方された抗生剤を飲んでから、ありえないくらい腹を下した。水を飲んだ10分後にトイレに駆け込む。何を食べてもトイレに駆け込む。抗生剤は腸のありとあらゆる菌を殺すためお腹を壊すから、と、これまで通っていた病院では整腸剤も一緒に処方されていたが、歯医者では処方されなかった。無知な私は、普段からビオフェルミン飲んでるし大丈夫だろうとビオフェルミンに全振りして様子を見ていたが、ビオフェルミンでは敵わなかったことを後日、知ることになる。
 薬剤特有の腹痛は、普通にお腹を壊すのと全く違い、地獄だった。アイスを3つ食べても平気なくらい頑丈だったはずのお腹が、普通に負けた。
 そんな生活が3週間続き、授業中でも腹痛で離席するなど仕事に支障が出始めたので、さすがに病院を受診した。
 結果は、過敏性腸症候群というもの。略称はIBS。主にストレスなどで発症することが多いらしいが、私の場合、原因はやはり歯医者で処方された抗生物質が原因だった。
 一旦2週間分の薬をもらい様子を見ながら過ごしていたが、3日目には頻繁に起こっていた腹痛はおさまり、生活がしやすくなった。何より、気兼ねなく水分補給ができるようになったのが嬉しくてたまらなかった。
 好きなアニメとコラボしていてジャイアントコーンを買い漁っていた時期があったが、そのタイミングで抗生剤の服用が始まったため、推したちは約1か月間、冷凍庫の中で放置されていた。ジャイアントコーンは冷凍庫の3分の1を占領していたので、さすがにそろそろ邪魔だと母親から言われ、今なら大丈夫かも、と試しに1つ食べてみた。次の日は無事に腹痛で苦しんだ。どうやらまだ早かったらしい。
 そんなこんなで、今は薬を服用しながら生活をしている。我ながら面倒くさい病気を発症してしまったものだと思う。IBSは命に係わる病気ではないが、地味に日常生活に支障が出る。近くにお手洗いがないと不安になるし、食べ物も気を付けないと秒でお腹を壊して、苦しむことになる。手元に薬がある限りは安心できるところもあるが、私の場合、大好きだった小麦が一番ダメな体質になった。パンを2つ以上食べると、次の日絶対にお腹を壊す。麺類も好きだが、食べた後は必ずお薬に頼る。
 IBSになる前はそんなことなかったが、緊張すると本当に腹が痛くなる。緊張でお腹が痛いなんて気のせいの類だと思っていたが、本当に痛くなるんだと身をもって知った。
 身体に合うもの、合わないもの、適量を探すことや、突然の腹痛に怯える生活は非常に面倒くさいが、もう発症してしまったからには付き合っていくしかないので仕方がないと腹をくくっている。
 謎の腹痛に悩んでいる人がいれば、ぜひ一度、病院を受診してみてほしい。薬一つでとても生きやすくなる。


4,車のエアコンが壊れた5月
 夏場に入って気温も上がったことで、さすがにこのままではまずいと車のエアコンの修理を依頼した。
 2年ほど前からエアコンの効きが悪いな、なんて思いながら過ごしていたが、気のせいかもしれないと放置していた。しかし、会社で使っている車や、他人の車の涼しさに、自分の車のエアコンの効きの悪さは異常だという確証が得られたので、意を決して持って行った。
 結果、コンプレッサーという部品が破損していたのと、エバポレーターのカビからくるにおいが気になったため、部品交換や洗浄の作業を依頼した。
 かかった費用については、聞かないでほしい。私が守っていた諭吉や渋沢の個体数は、瞬く間に激減した。しばらくもやし生活を覚悟してスーパーでもやしを見に行ったが、今の世の中はもやしも高く、どちらかと言えばそっちのほうにショックを受けた。
 無事に車は帰ってきたが、本当に涼しい。修理前のエアコンの効きの悪さを気のせいだと思い込み、暑くても気合でどうにかなると汗だくで運転していたあの時の私は、熱で思考がやられていたんだと思う。


5,無断駐車しているじじいにひたすら車を傷つけられた5月~9月
 住んでいる地域は、非常にマナーが悪い人たちの巣窟で、ごみの日に出したごみを漁り、たばこの吸い殻だけを持って帰るくそじじいもいれば、人が捨てた珪藻土バスマットなどを勝手にアパートの入り口に再利用したりするくそじじいもいた。昼頃からはラジオから爆音で演歌を流し、窓際でハーモニカを弾くおじいちゃんもいる。それはまだかわいいと思えた。
 夜になれば、1階に入っているスナックがオープンし、吐しゃ物、立ションは当たり前、歩道に車を停め、アパートから出られなくなる日もあった。
 極めつけは、3か月に一回は、勝手に私が借りている駐車場に勝手に車を停めるやつがいる。車種は違うが、どれもそこそこ高い車だ。田舎に住んでる奴は高級車買いがち、なんて話があるが、本当なんだと思った。
 大家に言えば解決する話に思えるが、大家がまた使えない。かなりご高齢らしく、話がそもそも通じない。電話で話しても、何を言っているのかわからないと言われて、切られる。
 見かねた姉が、駐禁の張り紙を作り勝手に止めていた車に片っ端から貼ったおかげで、最近は私の借りている区画にはほとんど停められなくなっていた。4年かかった。その代わり、隣の空いているスペースに、無断で駐車するようになった。
 そんな中、まるで自分が借りてますと言わんばかりの顔で、その空きスペースに週4くらいの頻度で勝手に駐車するくそじじいが現れた。勝手に停めるだけならまだしも、ドアを開ける力が強いのか、私の車に当てている。
 傷を入れられた個所は10か所ほど。証拠も掴んだので次見つけたら何か言ってやろうと思った矢先に、そのくそじじいの車はぱたりと停まらなくなった。逃げられた。許さない。


6,大予言に怯えた7月
 何の話か分からない人は、「2025年7月 予言」で検索してみてほしい。結局何もなかったのは良かったが、先の見えない話に不安になった日が続いたせいで気疲れした。
 以上。

7.人生初のワイヤレスイヤホンに感動した8月
 誕生日プレゼントで、ワイヤレスイヤホンを頂いた。人生初のワイヤレスイヤンホホ。Bluetoothで繋げるだけなのでそこまでは問題なかった。そのあとの、ノイズキャンセリングだったり、どこのボタンを押したらどうなる、など、細かい機能の理解や操作が難しく、メカのことをよくわからないと困り果てる人の気持ちがよく分かった。
 ワイヤレスイヤンホホは案外重量があり、耳の重さに慣れるまでに時間がかかった。しかし音質はかなり良い。ゲームをするとなると若干の遅延が気になるが、動画を見るだけなら優勝だ。膝の上に乗った猫に、イヤホンの線を嚙みちぎられることもない。ちょっとした離席で動画を止める必要もない。革命だ。
 これはウォーキングも捗るのでは、と、ワイヤレスイヤンホホを付けて外に出て約5分。片方を地面に落とした。約140cmの高さからコンクリートでガタガタの地面に叩きつけられたイヤホンは、壊れてはいなかったものの、大きな傷がついた。まだ頂いて3日しか経過していなかった。
 あまりのショックに、その日のウォーキングは秒で切り上げてすぐに家に戻った。 


8,心臓に爆弾があるかもしれない8月
 7月に健康診断を受けて、8月の中旬に結果が返ってきた。初めての健康診断から毎年同じ項目で『要指導』(改善しましょうみたいなこと)の記載があるため、今年もまたやつがいるんだろうな、と普通のテンションで開けて、びっくり。
 『要観察:心肥大の疑い』。初めて見る単語に驚いた。見慣れた要指導項目の中に紛れており、何だこれはと血眼になってインターネットの海を泳ぐ。
 色々と自力で調べた結果、特に気にする必要はなさそうだった。と、いうのも、今回のこの心肥大というのがX線検査で分かった項目であるため、肥満気味の人やX線を撮影する際に息の吸い込みが足りないとそう誤診されることがあるようだ。心電図でも異常が出ていれば病院を、というようなことがネットにたくさん転がっており、それで言うと心電図は異常なしだったため、今回はもしかすると誤診かもしれない。
 息が切れやすいのと、階段を上ったあとは口から心臓が出そうな動悸はするが、恐らく年齢からみても単純に運動不足だと思っている。1年ほど前、軽い運動を毎日続けていた時に、体力がついたおかげで2階から5階まで階段で上がっても息が切れることがなくなった、という経験があるため、運動で解決しそうな気がしている。
 どちらにせよ、項目も『要観察』であるため、来年まで様子を見てみることにした。
 息の吸い込みが足りていなかった可能性も加味して、次の健康診断では、この世の酸素を吸いつくす勢いで息を吸ってみて、結果を見てみようと思う。


9,社会人7年目、初めて長期出張へ行った9月
 9月の末、出張で千葉へ行った。目的は東京ゲームショウ。千葉開催なのに東京。某ランドと同じ仕様だ。
 初めての泊まりでの出張と、5泊6日という長丁場。2月に旅行に行った際にも同じようなことをしていたが、出立前の準備時間が一番嫌いな私は、前日の昼にキャリーバックを押し入れから引っ張り出し、夜から荷造りを始めた。必要なものはちまちま買いそろえていたので問題はなかったが、それも面倒くさがっていたら大変なことになっていたと思う。
 出張という名前がついている以上、お仕事で行かせてもらっているということを念頭に置いて行動しないといけないと思うと、気が張った。常に時間を気にして動かないと、周りに迷惑がかかる。初日から気持ちが全く落ち着かなかったため、お昼時間は喫茶店で甘いものでも食べながらリックスしようと、駅の中にあった有名な喫茶店に入った。
 しかしそこで注文した料理がいつまで経っても提供されず、なかなか客足も途絶えなかったため、諦めてお茶だけいただいて帰る羽目になるという、何とも幸先の悪いスタートになった。
 東京ゲームショウ開催期間は忙しいが8割だったが、楽しかった。会場が広すぎて迷子になったり、入り口を間違えてスタッフに嫌味を言われるなど色々あったが、それを相殺してくれるほど楽しかった。高校生の時から推しているゲーム実況者グループに生で会うことができたのが、一番嬉しかった。
 ゲーム好きな姉弟へ、東京ゲームショウの物販コーナーでグッズを買って帰った。姉にはfalloutのキーホルダー、弟にはメタルギアのアクリルブロック。どちらも思っていたより喜んでもらえたので、これまた出張へ行ってよかったと思う出来事だった。
 やはり現地でしか味わえない雰囲気というものはあり、沖縄に住んでいる全員、人生経験として県外へは一度でいいから行ってみるべきだと思う。ライブでも旅行会社が提供しているツアーでも、なんでもいい。中学校や高校の修学旅行はカウントせず、完全プライベートで行ってみてほしい。
 沖縄の狭さに驚くことだろう。


10,
モンハンに再熱した11月
 
10月はこれといって出来事はなかったが、11月あたまのガイカレまつり後から、一仕事終えたという安心感で、ゲームに熱中できるほどの心の余裕が出てきた。
 と、言うのも、昔は宿題をほっぽりだしてゲームをするほどの大のゲーマーだったのだが、社会人になってから心の余裕がないときに遊ぶと、「こんなことしてても絵とかCGがうまくなるわけじゃないしな……」と余計なことを考えて遊んでしまい、純粋に楽しめなくなっている。
 ゲームは楽しむために遊ぶのであって、悲しい気持ちになってまで遊ぶ必要はないと決めてからは、心にゆとりができたタイミングを見計らって遊んでいる。
 そんな中で、2年前のちょうど今頃に遊びだしたゲームが、モンスターハンターだ。
 実は人生で一度もモンハンを通ってこなかった。シリーズはゲーマー弟イチオシのライズから遊ぶことにした。それが正解だったのかもしれない。
 ライズを駆け足で終わらせて、さっさとサンブレイクへ移行した。サンブレイクというのは、ライズから話がつながる形で発表されたアップデートのタイトル名なのだが、サンブレイク単体でゲーム1本と呼んでいいほどのボリュームがある。さすが大型アップデート(有料)である。
 どうやら2年かけて600時間は遊んでいるようなのだが、まだエンドコンテンツに終わりが見えない。恐ろしく時間泥棒だ。まあ脳死YouTube見てるよりはきっと有意義な時間だよな、と、だましだまし遊んでいる。
 実はこの記事の投稿が遅くなったのも、モンハンで遊んでいたからである。ちなみに気が付いたら朝の5時になっていた。
 こんな風に、時間を忘れるほど熱中できるものがあるのは幸せなことだな、としみじみ思う今日この頃である。
 今年の年越しゲームはモンハンで決まった。


11,Amazonの荷物が盗まれた11月
 初めて通販で注文した荷物が盗まれた。それも、完全に配達員の落ち度だ。うちの周りはマナー(治安)が悪い、なんて話をしたと思うが、盗難の懸念から置き配は一切使わないようにしていた。
 ところがどっこい。勝手に置き配にされた荷物があった。注文履歴をみても、置き配を指定しないという指示になっているというのに、どこかの家と間違えられてしまったのか、置き配にされた。
 配達が完了しました、という文言と一緒に添付された写真に写る商品の後ろには、完全に我が家の前だとわかるものが。しかしそこに荷物はなかった。
 カスタマーセンターに問い合わせて、再送、という形で対応してもらえたのは良いものの、何が一番怖いかというと、自分の名前、住所がどこの誰かもわからない人の手に渡った、ということである。
 皆様も、特にAmazonで注文する際はくれぐれもお気をつけて。


12,身内に不幸があった11月
 頑固親父。その4文字が似合う祖父の訃報は、突然だった。孤独死だった。
 訳あって祖母のもとを離れ一人暮らしをしていた祖父だが、決して社会から孤立していた、家族からも放置されていたという訳ではない。祖母も叔母(私の母の妹)も、祖父の家へ徒歩圏内のアパートに引っ越しており、何があっても駆けつけられるように体制は整えていた。もっと言うと、祖父のお財布の管理をしていた叔母は1週間に2度、どんなに忙しくても必ず祖父と連絡を取っており、祖母は、手料理をふるまうからと祖父に呼ばれて祖父の家へ出向いたり、一緒に居酒屋へ飲みに行くこともあった。祖父が足繫く通っていた居酒屋の店員さんは、実の息子のように一人暮らしの祖父のことを心配してくれていて、毎日、祖父と連絡を取り合っているうちに、店員と客という関係から、一緒の部屋で相撲中継やバラエティ番組を楽しむ友人になっていた。友人と一緒に過ごす時間を祖父も楽しみにしていたようで、叔母には「○○が教えてくれるテレビは面白い」と自慢気に話していたらしい。
 だからこそ、家族の誰もが、祖父が「孤独死」するなんて考えていなかった。叔母と祖母は、祖父の死亡推定日の2日前に、祖父を一緒連れてに回転寿司を食べに行ったと言っていた。祖母は、祖父の死亡推定日のその日に、祖父の家にお肉を貰いに行く予定だったと言っていた。しかし祖母は体調を崩し、祖父に会いに行けなかった。その日以降、2日前から祖父と連絡が取れないと心配していた叔母も入院レベルで体調を崩しており、動けなかった。
 祖父の遺体が見つかった日、叔母はその日から入院だと言っていたが、病院から許可をもらって何とか出てきたと、小さな点滴が刺さった腕を見せてくれた。
 そんな中、黒い遺体袋に入れらた祖父が、警察の手によって家から運び出されていく。運ばれていく祖父を見ながら叔母が「病院で看取れると思ってた」と小さく呟いた時の表情は、忘れられない。
 決して一人にならないような体制をとっていたとしても、こうなることもあるのだと、考えさせられる出来事だった。
 久米島で生まれ、幼いころに母親を亡くし、小さいころから自給自足の生活をしていた祖父は、とても生命力に溢れていて、この人なら無人島に放り出されても生きていけるだろうと思えるくらい、身の回りのことは何でもこなす人だった。
 大工という仕事柄、家具なんてものは端材を貰ってきて自分で作っていたし、拾ってきた犬のために立派な犬小屋も建てた。釣ってきた魚も自分で捌いて焼いて、育てていたヤギも自分で捌いて食べていた。食べるために育ててるから名前は付けないと言っていたが、散歩は欠かさず連れて行っていた。ヤギを散歩させて帰ってきた祖父の姿がシュールで当時は笑っていたのだが、今思い返しても笑ってしまう。
 兄が大きいセミを捕まえたと祖父に自慢した際には、これはうまいぞ、とセミを網で焼きだし、味塩を振りかけて食べる人だった。自分が取ってきた虫を食べられてしまうと思っていなかった兄は、半べそをかいていた。
 そんな祖父とは、私が小学校1年生に上がる前までは家族丸々、祖父母の家でお世話になっていたため一緒に暮らしていた。引っ越してからは年に数回、更に7年前、家族で地元を離れたことで、会う頻度は激減した。警察からの事情聴取の際、最後に会ったのは?と聞かれて日付を遡り、2年は会っていないことが分かった時には、そんなに会ってなかったのか、と後悔の念に駆られた。
 最後に見た祖父の顔は、死斑だらけで赤紫色に腫れていた。
 10年ほど前に脳梗塞で倒れてからは大工を引退し、静かに暮らしていたように思える。しかし年に数回、久米島に帰っているようだった。理由は分からなかったが、祖父の火葬の時に親戚から聞いた話だと、立派なマイホームを建てていたそうだ。しかも他人の敷地内に勝手に。本当に無茶苦茶をする祖父だ。
 その破天荒ぶりがまた面白い。勝手に家を建てられた側の人からしてみればたまったもんじゃない話だが、当人の祖父はもうこの世にはいないので大目に見てほしい。
 酒もたばこも大好きで、祖父の部屋にはいつも酒瓶が並んでいた。とっておきはベッドの下。自作のベッドに敷かれた敷布団をどかせば、何十本も酒瓶が並んでいるのが当たり前。そのせいか、木のいい香りに混じって、アルコールのつんとしたにおいがした。独特な祖父の部屋のにおいは、未だに覚えている。
 パチンコも大好きで「学校に行ってくる」という祖父の言葉は、パチンコを意味していた。孫に変なことを吹き込まないよう祖母に言われていた祖父が、ごまかすために言い出した表現らしい。その学校も、ここ数年はあまり通っていなかったみたいだ。
 そんな祖父には幼いころ、本当に色々なところに連れて行ってもらった。たくさんお小遣いももらった。突然のことに、今までのお礼も何もできず、申し訳がない限りだが、これからお盆には、たくさんウチカビを用意してあげようと思う。
 葬儀の後、叔母が遺産も何もない、遺品整理も特殊清掃を入れるのも大変だと呆れていたが、祖父との思い出話を語るときには、必ずと言っていいほど笑いが起こる。その笑いが祖父が遺してくれた十分すぎる遺産だと思うので、私はそれを大切にしていきたい。


13,これ以上悪いことが何も起きてほしくないことをひたすら祈る12月
 ここに書ききれない、書くのが面倒くさい、また書くほどのことでもない、という話もひっくるめてこの1年を振り返ってみれば、実のところ悪いことのほうが起きている。書こうと思ってやめた話の一つが、12月に入ってすぐ、バイクに当て逃げされた。ただ車には目立った傷が一つもついていなかったため、見逃してやることにした。だが許してはいない。あの若造め。
 厄年か?と疑うレベルで悪いことが続いたため、自分なりに少し調べてみると、どうやら厄年ではないが、八方塞の年であるらしい。名前の通り、何をしてもうまくいかない年なのだそうだ。余計なことをせず、自分のやるべきことを淡々とこなしなさい、という年なのかもしれない。もうそろ終わるが。
 もうこれ以上悪いことは起きてほしくないと祈るばかりだが、それこそ最後まで気を抜かずに、八方塞の年を楽しもうと思う。余計なことはせず、粛々と生きよう。
 楽しみでいうと、年越しそばが楽しみだ。美味しい食べ物を食べているときが一番幸せを感じる。あとは来年、喪中が明けたら東南植物楽園へイルミネーションを観に行く予定がある。キラキラしたものは見ていて気分が上がる。非常に楽しみだ。

 楽しみなことを糧に、残りの日々は乗り越えよう。
 そして、今年だけでなく来年も、皆様にとっていい年になりますように。 
 それでは、また。

24歳、「教える仕事」に憧れている人生。Part②【END】

【前回の記事はこちら】

24歳、「教える仕事」に憧れている人生。Part① - i-kinjo’s blog

 

 おはこんにちばんわ。ぽかぽか陽気の日もあった先週とはうってかわって、沖縄にもようやく冬が顔を出してきましたね。季節の変わり目、みなさんも体調を崩さないよう、ご自愛ください。

 私はといいますと、ここ3日間は「鉄拳 タッグトーナメント2」というPS3のゲームに情熱を燃やしてました。

 

 ゲーム仲間兼家族の弟と毎晩遊んでいますが、そんな弟が「PS4の鉄拳飽きたからタッグトーナメント戦一緒にやってみない?」などと私に声をかけてきたのが全ての始まりです。

 

 格闘ゲーム初心者の私 VS ゲーム慣れしている弟

 

 勝てるわけもなく毎回フルボッコにされています。弟が接待モードでプレイしてくれないと勝てないのが悔し過ぎて、毎日空いた時間はコンボの練習に充てようかなとガチ勢に足を踏み入れる直前まで来ています。他にやることがあるのに。

 因みに使っているキャラは花郎ファラン)という韓国人のキャラで、テコンドーの使い手です。足技が殆どなのでリーチもあり、技の出も早いので私としては使いやすいのですが、構えが4つもあり、コマンドがとにかく多いのが難点。技によっては強制的に構えが変わるので以下略

 喋ると止まらなくなるオタクの悪いところがちょっと出てきたところで、本題に移ります!

 

そんなわけで、鉄拳トークからはじまった今回も、

IT College Okinawa Advent Calendar 2022 - Adventar

です。13日目でございます。

 

 今年2枠ももらってしまって、すみません。

 

 前回のお話がわかっていると、より一層内容についてきやすいかなと思いますので、未読の人は冒頭のURLからどぞ。

 

今回は、目次で言うと 4~6 のエピソードです。


Part① ※前回のお話だよ

1.自己紹介

2.はじめに

3.一人目の恩師:遅咲きだった国語の先生

Part② ※今回のお話だよ

4.二人目の恩師:誰にも媚びない美術の先生

5.三人目の恩師:芸術に対する情熱超えてマグマ溜まりがあった美術の先生

6.「憧れる気持ち」は強い

 

 さて今回からは、学問と芸術に揉まれていた高校時代に出会った恩師とのエピソードです。

 

 

4.二人目の恩師:誰にも媚びない美術の先生

 中学校3年生の時の三者面談。

 一人目の恩師である担任の先生が、私の成績簿をみて、こんなことを言います。

 

「テストの点数は国語以外、毎回赤点なんですけど、成績は何故か普通なんですよね」

 あ、なんかいま余計な一言聞こえた気がする。

 

 先生も疑問に思う私の評定平均は

中1 → 3.5

中2 → 3.2

中3 → 3.2

 あれ、本当だ。

 

 毎回20点以下だった数学と英語は勿論2。

 はんだごてで前髪が焦げた思い出のある技術も2。

 運動もできないし体力テストも3年間下のランク、しかも協調性皆無だったのに、体育も3がついてる。

 

 不思議。隣に座っている母親もなんで?って顔で私のほうを見てきます。いや、知らんがな。

 

「ほぼ毎日、きちんと出席していて、授業態度も良いからだと思いますよ」

 ほほう。

 

 じゃあ次、頑張らないといけないことは?

 

 勉強 (Study)。

 

 これでテストの点取れてたら、もう少し成績上がったのにね、みたいな話から、次の目標が決まります。そう、私が忌み嫌っていた大嫌いな「お勉強」です。

 

 高校へ進学するためには、勉強が必須なのです。

 成績なんて二の次。私の授業態度がどれだけよくとも、その人の学力が最も重要。

 

 席次もおしりから数えたほうが早かった私は、県内でも下から数えられる偏差値で、かつ好きだった絵の勉強ができるコースが存在する高校への進学を勧められます。

 勉強をしてこなかったがゆえに選択肢が殆どなかった私は、進路をそこに決め、あとは塾に通い、進研ゼミに入り、嫌々ながら、ゲームの時間に充てていた時間を勉強に費やして、お勉強と過ごす毎日でした。

 それでも、勉強に対して「どうせ今からやったって無理でしょ」と諦めを抱いていた私は、全く焦ることなく、本腰入れて受験対策をしだしたのは周りが受験でピリつき始めた3年生の9月下旬ごろ。

 

 国語は現状維持でこれ以上落とさないように。

 理科は元素記号から覚えていく。

 数学・英語もまず中1レベルから総復習。(一番この2教科が時間かかりました 笑)

 社会は都道府県、世界地図が全く頭に入っていなかったので地理は捨てて、大好きな歴史に全振り。

 

 さあ、半年もありません。どうしましょう。

 今まで勉強してこなかった自分自身を恨みました。

 好きなことだけできることが、あんなに贅沢だったなんて。

 

 嫌々ながらも勉強していくその中で少しずつ、自分のヤバさに気付き始めます。

 

 これは、やれるだけやっとかないとまずい。

 

 四の五の言わずに、とにかく勉強漬けの日々を送ります。

 勉強は嫌いだけど、自分だけ落ちこぼれは嫌だ!

 そんな気持ちで勉強を1ヶ月続けた時、ふと、スラスラ解けるようになってきた数式を見て、あれ、なんかわかるって楽しいかも。なんて思う瞬間が増えてきました。

 苦痛まみれになるはずだった受験勉強を通して、ちょこっとだけ、

「わかるようになるまでは大変だけど、わかるようになったあとは楽しい」

 そんな風に、勉強に対する意識がいい方向に変わります。

 

 そんなこんなで、努力の甲斐あって第一志望だったコースに無事合格できました。当時の倍率は2.5倍とかそこらだったような。定員40名でその倍率だったので、一緒に同じコースで進学を決めたオタク友達と合格発表日まで震えていた記憶があります。

 私は面接で質問された内容を飛ばしてしまい、面接官の先生に「もういいです」と言われた苦い思い出があるので、これで落ちたなら、その原因はあの面接だなと思っていました。

 

 入学が決まって嬉しい気持ちの反面、その高校の偏差値や、卒業後の大学進学率から、その高校を卒業して教職に就くのは無理だろうな、と、憧れていた夢を一旦、諦めてしまいました。

 

 別のなりたい職業を探しながら過ごそう。

 受験勉強の経験から、あんなにポンコツだった自分自身でも、何だかんだ「やればできる」事がわかったので、少しだけホッとして、やることやりながら、自分のペースで過ごそうと決意します。

 そう思って過ごした高校1年生の担任が、二人目の恩師になります。

 

 実は、先生になりたい、という夢は二人、仲の良い友達を省いて、親兄弟その他諸々、誰にも言っていませんでした。否定されるのが何よりも怖かったからです。自分で自分が賢くないのはわかっているし、進学を決めた学校だって、偏差値の低さでは5本指に入るほどの高校。

「そんな高校に進学しておいて、無理でしょ」

「勉強ができないお前には無理」

 そんな事を言われたら、今度こそ人生ログアウトしてしまう。と、本当に言い出すのが怖くて、私のことを否定するようなことは言わないとわかっている友人以外には話せず、胸の内に秘めていました。

 卒業式では、ゲームのキャラクターデザイナーになりたいと「この子ならそんな事思ってそう」という当たり障りのない範囲を言っていました。

 

 高校1年生の時の担任の先生は、そんな将来の夢について、伝える勇気を出させてくれて、教職の道へと背中を押してくれた、とても素敵な先生です。

 

 教職という夢を一旦諦めてしまった私は、じゃあ、どういう仕事に就きたいか決まっていないなら、選択肢は多くないと後々大変だな、と身をもって経験した事を反省として生かし、真面目に学問に取り組もうと心機一転します。ですが、私が通うコースは、芸術のなんたるかも勉強もしないといけないコース。在学中は学力だけでなく、画力も問われます。

 

 絵は好きでしたが、第一の壁として立ちはだかったのは「デッサン」でした。私が今まで好きで描いてきたデフォルメイラストとは全く要領の違う絵。しょっぱなで全然描けないうえに、一緒に進学したオタク友達が初心者とは思えないほどデッサンが上手だったので、周りからはその友人と比較対象にされ、また心を折られかけます。

 

「〇〇は絵が上手いけど、一緒にいる子はそんなにだね」

「勉強はできるみたいだけど、絵はそんなにうまくないよね」

 

 それが死ぬほど悔しかったので、受験勉強を通して学んだ「やればできる」精神とともに、放課後、特に用のない日は毎日残ってデッサンや絵の課題に取り組みます。担任の先生は、歯に衣着せずにものを言うタイプだったので、散々こっぴどくダメ出しをされつつも、必死に喰らいつきました。もちろん、中間テストの前は勉強もしっかりとこなして……

 

 そんな努力が報われたのか、絵の分野では入学してから半年間、絵と向き合った甲斐あって、高校総合文化祭という、高校生にとっての一大イベントで、優良賞を貰えるレベルの絵が描けるようになりました。

勉強では、評定平均は4.9。英語だけ相変わらず苦手で、4止まりの結果。それ以外は全て5。

 バス通学だったので、時間管理も気を付けるようになり、無遅刻無欠席無欠課の、今までの人生で感動するほどの優秀な記録を残します。親は、成績簿に書かれた名前が別の人のものじゃないかと何回も確認してました。実は私もしました。

 

 ここで、「やればできる」なら、今までできなかったのは「やらなかった自分が全て悪い」という事実に気が付きます。親が賢いと子供も賢いみたいな、ああいうのは全く関係ない。結局、できた、できなかったは全て自分自身のせいだ。という事です。

 

 じゃあ、入学時に諦めてしまった教職という夢も、別に卒業した高校とかは関係なくやればできるのでは。

 

 少し諦めかけていましたが、1年、他の道はないかと考えても考えても捨てきれなかった夢を、終業式の日に思い切って先生に話しました。

 

「教職って、就くの難しいですか?」

「難しいよ。私も2回、浪人したし」

「こんな私でもなれますかね?」

「成績も勤怠も良いわけだし、こういう普通の努力を怠らないゐまりならなれるよ。というか、気になってるならぜひ挑戦してほしい」

 

 普通の努力、と言うのは、気分で休んだり、遅刻をしたりせず、やりなさい、と言われた課題に真剣に取り組み、わからないならわかるために努力をする、わかるまでやる、そういう、社会に出た大人に共通して求められる努力だと言っていました。

 

 その時、まず自分の夢を否定されなかったことに安心して、その後、あなたならなれる、という励ましにも近い言葉に、再度、教職になりたい、という気持ちが再熱します。

 そして進級した2年生からは、教員採用試験を受験するために必須である「教員免許」を取得できる、沖縄県立芸術大学を目指す日々が始まりました。

 

5.三人目の恩師:芸術に対する情熱超えてマグマ溜まりがあった美術の先生

 

 自分のなりたい道を確信したあと、あとは目標に向けて受験対策を進めていこう!と前向きに準備をしていきます。

 

 高校2年生に進級し、途中から産休・育休のため担任の先生が、副担任をしていた非常勤の先生に代わりました。結局、代理だったはずの先生は、3年生の卒業まで私たちの担任を続けることになり、この先生との出会いは、私の作品作りに対する意識を大きく変化させてくれるきっかけになります。

 

 その先生は、だいぶ明るい人柄で、親戚のお姉ちゃんくらいの軽いノリで生徒と接する先生でした。そのため、うちのコース以外でも人気のある先生で、そんな人気者が担任なのが少し誇らしかった記憶があります。

 そんなノリの軽い姿からは想像もつかないくらい、その先生は「作品作り」に対して凄まじい情熱を燃やす先生でした。

 

 卒業制作期間の中間報告会で、授業以外で制作を全くせず、推し活や楽しいことばかりに現を抜かしていたクラスメイトが、とんでもねえくらい手抜きな絵を持ってきたとき。

 

 その作品、3年間の集大成としてみんなの作品と並べた時にどう見られると思う?

 明らかに見劣りしてるって自分で気づかない?

 分からないなら、その感性だいぶやばいよ。

 描きたいものがあるなら描けば良い。作りたいものがあるなら作れば良い。

 本当に好きなら、自分の時間、お金、睡眠時間、何かを犠牲にしてでもやるでしょ? 

 そこまでできないなら、あなたが勉強してきた3年間の熱意ってそれっぽっちだったってことじゃない?

 

 そんな事を、はっきり言えちゃう先生でした。

 

 「何かを犠牲にしてでも」の部分で賛否分かれそうな先生の持論ですが、良い作品を作りたいなら、それなりの時間をかけないといけない。偶然短期間で名作が生まれることなんて滅多にない、という続けてのお話から、作品に対してそこまでストイックになれる先生の姿は、同じ芸術を生み出す道に進む人間として、徐々に憧れになりました。

 

 話は戻って、高校2年生の頃。

 私は既に先生になりたいと公言していたので、先生もそのつもりで私に指導をしてくれていました。先生は沖芸(沖縄県立芸術大学は略して沖芸と呼ばれています)の卒業生だったので、芸大受験のあれこれを教えてもらいつつ、デッサンを見てもらったり、作品作りの相談に乗ってくれたり。

 

 途中、私が家庭の事情で自分の身の回りの費用は自分で稼がないといけなくなり、アルバイトと学業を並行して進める事を伝えた時には、私の健康面を心配をしつつも、

「とはいえ、学業が優先だから、時間を理由に作品に対して妥協することは許さない。時間がないなら趣味の時間削るなりして、完成するまで時間を捻出すること。先生っていう教える立場の人間になる道に進みたいなら、なおさら妥協するな」

と、励まし?の言葉を送ってくれたのは、いい思い出でもあり、その言葉は、今でも私が作品を作る上でのマインドとして、強く残っています。

 

 とは言え、アルバイトと学業の両立は思っていたよりも結構しんどくて、疲弊してしまい絵が描けなくなってしまう期間がありました。

 何を描いているのか、何のために描いているのか自分でもわからなくなり、目から鼻から色んな液体を垂らすこともざらにありましたが、

「描けば終わるから」

「この苦しい時期にしか描けない絵があるんだよ」

「芸術の世界には正解なんてないから、万人に上手って褒められる絵を描こうとしないで、筆の動くまま描けばいいよ」

 そんな先生の励ましもあり、筆は折らずに粘り、その結果、県代表として広島やシンガポールへ研修に行ったり、貴重な経験をすることができました。

 

 作品へ向ける熱量、スランプに陥った生徒への寄り添いかた。

 その全てが、私が先生になった時にこうありたい、と思う理想の姿そのものでした。

 

 

6.「憧れる気持ち」は強い

 中学生・高校生の頃といい、共通して「こういう人になりたい」という「憧れ」が、何をするにも私の原動力になっています。

 

 勉強が全くできなかった中学時代も恩師の姿に憧れて、教員という職業に興味を持ち、高校時代は、一度は諦めたものの、再度目指すようになり、恩師の姿にまた憧れて、と。

 そして結局、沖芸ではなく専門学校へ進学した私ではありますが、その専門学校でも素敵な先生方と出会い、「教える仕事」にまたまた憧れ、学ぶことが盛りだくさんなイバラの道を進む決意をし……

 

 私の人生は、結局「憧れ」から始まって、今もそれが続いています。

 

 この仕事じゃなかったら、今頃何の仕事についてたのかな、なんて時々考えてしまう時もありますが、心の中に「憧れ」である恩師たちが存在している限り、結局私は、また「教える仕事」に憧れて、教育系の仕事に転職するだろうな。と思います。

 

 それくらい私にとって「教える仕事」は楽しい仕事です。

 

 前回の話の冒頭で、学校についていけない自分なんて、って悲観しなくても良いんだよ、という言葉を書きましたが、

「先生って言うお仕事たのしーー!」

と先生としてお仕事をしているこんな私だって、中学時代、勉強もできない地味で根暗なポンコツでした。

 高校では頑張ったかもしれないけど、PCもろくに触れないまま専門学校に進級して、タイピングなんて下から数えたほうが早いくらい遅かったし、PCの知識が皆無過ぎてついていけない授業ももちろんあったし、なんなら中学時代の悪夢再び……的な感じで、わからないことを頭に詰め込むのがしんどくなってきて、課題をまともにしない時期もありました。(ごめんなさい)

 

 でも、時間が経って、理解するためのパーツが揃った瞬間に、

「お前は、あの時の……!!」

 なんて、理解できる瞬間が来ることもあります。

 

 今、無理やり理解しようとしても、わからんもんはわからん、でいいんです。

 

 でも、一つだけ、忘れてほしくないのは、

「わかんないから、勉強しなくても、いっか!!」

 これだけは絶対にダメです。

 

 人生で経験すること・学ぶことで、無駄なことは何一つありません。

 無駄なのは、嫌いな人間から聞かされる自慢話くらいだと思ってください。

 

 

 頑張った人が、頑張った分、きちんと報われる1年になりますように。

 

 

 

 それでは、

 未だに「教える仕事」に憧れ続けている私のお話は、これにて終了となります。

 最後に余談ですが、心理学的な用語で、憧れている人の真似っこをすることを「モデリング」と言うそうです。私が教職に興味を持ったお話の流れが完全にその心理学的なモデリング行為で、3DCGに興味を持つ前からモデリングしとったんか、己。と笑っちまいました。

 

 ほぼ自分語りにも関わらず、2週にわたって読んでいただいて、ありがとうございました。

 アドカレのために開設したブログではありますが、せっかくなので、気が向いたら、ちまちま更新したいと思います。

 それでは、またどこかで。

24歳、「教える仕事」に憧れている人生。Part①

ブログ形式で書くなんて初めてなので、タイプする指がめっちゃ震えてます……( ;∀;)

 

おはこんにちばんわ。初めましての方は、どうも初めまして。

専門学校ITカレッジ沖縄のゲームクリエイター科1期生・ゐまりです。

ここ最近はとあるMVのコラで使われていた宮本浩次さんの「冬の花」という曲にドはまりしております。

 

早速ですが、

IT College Okinawa Advent Calendar 2022 - Adventar

の6日目、枠を頂けたので、筆を執ります。

 

事前の注意事項としては、めちゃくちゃ長いです、すみません。

10,000文字を超えてもなお書き終わる気配がまだまだ遠くにあったので、2つに分けることにしました。

今回はPart①です。

Part②は、空いている枠があれば書きます。なければ来年書きます笑

お時間ある時に読んでいただければ幸いです。

 

「テーマは特に指定していないので、自由に書いてもいいよ!」

と、いう事で……

 

前回のアドベントカレンダーで、

書きたかったけど力尽きて書ききれなかったことにリベンジします!

 

勉強嫌い、運動なんてくそくらえ、ゲーム楽しい、お絵かき楽しい、好きな友達と一緒にいられればそれでいい。

好きなことだけをして、自由気ままに中学時代を過ごしていたポンコツな己が、ある出来事をきっかけに、

「教える仕事で生きていきたいと思った」ことを書き連ねていきます。

 

結局言いたいことは、

「やりたいことを見つけた人間は強い」

という事なので、今現在

「学校の授業についていけない自分なんて、人間として出来損ないなんだ……」

と不安な日々を過ごしている皆さん。

そんなに悲観的にならなくてもいいんだよ。

 

Part① ※今回のお話だよ

1.自己紹介

2.はじめに

3.一人目の恩師:遅咲きだった国語の先生

Part② ※次回に続くよ

4.二人目の恩師:誰にも媚びない美術の先生

5.三人目の恩師:芸術に対する情熱超えてマグマ溜まりがあった美術の先生

6.「憧れる気持ち」は強い

 

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