24歳、「教える仕事」に憧れている人生。Part①

ブログ形式で書くなんて初めてなので、タイプする指がめっちゃ震えてます……( ;∀;)

 

おはこんにちばんわ。初めましての方は、どうも初めまして。

専門学校ITカレッジ沖縄のゲームクリエイター科1期生・ゐまりです。

ここ最近はとあるMVのコラで使われていた宮本浩次さんの「冬の花」という曲にドはまりしております。

 

早速ですが、

IT College Okinawa Advent Calendar 2022 - Adventar

の6日目、枠を頂けたので、筆を執ります。

 

事前の注意事項としては、めちゃくちゃ長いです、すみません。

10,000文字を超えてもなお書き終わる気配がまだまだ遠くにあったので、2つに分けることにしました。

今回はPart①です。

Part②は、空いている枠があれば書きます。なければ来年書きます笑

お時間ある時に読んでいただければ幸いです。

 

「テーマは特に指定していないので、自由に書いてもいいよ!」

と、いう事で……

 

前回のアドベントカレンダーで、

書きたかったけど力尽きて書ききれなかったことにリベンジします!

 

勉強嫌い、運動なんてくそくらえ、ゲーム楽しい、お絵かき楽しい、好きな友達と一緒にいられればそれでいい。

好きなことだけをして、自由気ままに中学時代を過ごしていたポンコツな己が、ある出来事をきっかけに、

「教える仕事で生きていきたいと思った」ことを書き連ねていきます。

 

結局言いたいことは、

「やりたいことを見つけた人間は強い」

という事なので、今現在

「学校の授業についていけない自分なんて、人間として出来損ないなんだ……」

と不安な日々を過ごしている皆さん。

そんなに悲観的にならなくてもいいんだよ。

 

Part① ※今回のお話だよ

1.自己紹介

2.はじめに

3.一人目の恩師:遅咲きだった国語の先生

Part② ※次回に続くよ

4.二人目の恩師:誰にも媚びない美術の先生

5.三人目の恩師:芸術に対する情熱超えてマグマ溜まりがあった美術の先生

6.「憧れる気持ち」は強い

 

 

 

1.自己紹介(Who are you?)

 お前誰やねん、って思われたらなんかわからないけど傷つくので、一応ざっと自己紹介しておきます。

 某学校でゲーム制作を通してクリエイティブなアレコレを教える仕事をしています。一応、ヒト科に属してるホモ=サピエンスらしいです。

 1998年生まれの24歳で、ITカレッジ沖縄のゲームクリエイター科を2019年3月に卒業しています。1期生です。

 動物が好きで、猫を2匹飼っています。

 前より頻度は落ちましたが、創作系とかも趣味の範囲で楽しんでます。

 

2.はじめに

 実は中学生時代から「先生」という職業に憧れていて、憧れつつも生きてたら、ひょんなことから長年の夢を叶えられました。

 それだけ言ってしまうと何も努力してこなかったように聞こえるので、そんな背景にはもちろん自分がそれなりに頑張ってきた成果と、それ以前に、私のやる気スイッチを押してくれた今までの恩師の存在があったんだぜ!というお話から、まずはしていきたいと思います。

 Part①は、中学時代の恩師とのエピソードです。

 

 今の会社に勤め始めて4年目ですが、1年目は会社や教務以外の業務に慣れること・講師になるための技能研修とかが優先だったので、名前のおしりに「先生」と付いてくる「教務」という仕事は、実質3年目です。

 

 人間と接するのが9割な仕事ですが、はっきり申し上げて人間は苦手です。肚の中では何考えてるかわからないし、気を遣わないといけないし、相手に不快感与えないようにマナーとか気をつけなきゃいけないし。正直しんどい。あと私、人見知りであがり症だし。

 話す時とか結構あわあわしちゃうので、コミュ障に近いものはあるのですが、その言葉を使ってしまうと、私と関わったことのある人からは「嘘つけ!コミュ障っていうのはな、人と喋れないどころか、人間を前にすると石化しt……」「あ、もういいです」っていうやりとりがテンプレなので「人見知り」という言葉を使うようにしてます。

 未だに人間相手は慣れません。緊張します。

 

 そんな私が人と関わることが重要任務である今の職業を続けられているのは、過去に出会った恩師の皆様に対する「憧れ」が今もなお心に残っているからなのです。

 

 

 話す前に、私が愛してやまない我が家のぬこ様二匹をご堪能ください。

マロ(白猫)、ミロ(三毛猫)

 

突き刺さっておる。

 

3.一人目の恩師:遅咲きだった国語の先生

 

「大人になってからが、本当の勉強の始まりだ」

とかナントカ言う言葉は、中学時代の恩師が授業中にポロッとこぼしたもので、

「大人になりたくない!!!」

と切実に思ったおかげなのか、私のキャパの少ない脳みそにもしっかり記憶されてます。どんだけ勉強嫌いなんだよ。

 社会人になった今、まさにその通りだと戦慄する日々を送っていますが。

 

 そして、そんなことを言った先生が、私の人生にとって一人目の恩師になります。

 

 中学時代、私は「バカ」でした。良い意味の「バカ」でも、かわいい意味の「おバカ」ではありません。悪い意味の「バカ」です。勉強ができない「バカ」でした。

 

 小学生時代から勉強は得意でなくて、物覚えも悪かったです。小学校二年生で覚えさせられた九九も、居残りで一生懸命覚えた記憶があります。都道府県に関しては47都道府県、覚えられませんでした。

 私は兄弟が3人いますが、母曰く、上の兄・姉と比べて、テストの点も「普通」とのこと。惜しいばかりで、100点は殆ど見たことないそうです。

 ただ、漢字だけは自覚があるくらい好きだったので、異様に張り切っていてそれだけは満点が多かったとか。

 思い返せば、その頃から学力の偏りがひょっこり顔を出していますね。

 

 小学校のときはそれで良かったんです。なぜなら、

 数字という、目に見える形で他人との優劣がつかないから。

 

 先に進学していた兄や姉からは「席次」という単語はちょいちょい聞いてましたが、私の学問に対する意欲を削ぎやがったのはコイツです。この悪しきシステム。人を順位付けしやがって、滅んでしまえ。そんなん上位にいる人間だけが楽しいだけだろ、と。

 

 

めっちゃ恨んでますとも。

 

 

 今でも順位がつけられるのはなかなかにしんどいです。

 この世からログアウトしたくなるくらいしんどいです。

 

 自分では結構頑張って勉強したつもりでも、返却されるテストの点数や、席次に載る順位を見て、涙も出ないくらい心を粉々にされていきます。

 

 あ、自分って全然勉強できないんだ、と。

 

 そんな中学に上がって初中間テストを体験したその後から、諦めから勉強しなくなりました。昼間は学校、家に帰ったらテキトーに2ページくらい宿題やって……

(うちの中学校は宿題やる・やらないは完全に任意でしたが、漢字の読み書きや、ローマ字は読み書きできないと流石に恥ずかし過ぎるという気持ちがあったので、そこだけは取り組んでいました)

 

 あとは寝るまで小学校6年生の時にサンタさんから貰ったPSPでゲーム三昧!当時は「天誅」という忍者のゲームだったり「三國無双」や「FF」などに夢中でした。インスピレーション湧いたらお絵描きとか創作活動!

 

 なんて楽しい日々なんだ!!

 

 好きなこと、やってて楽しいと思えること以外は全く興味なかったです。

 

 でもまあ、学校は体調崩したり身内に不幸がないと休めないと勘違いしていたので、ズル休みをする悪知恵も頭になく、学校にはほぼ毎日通っていました。でも本当に通ってるだけ。

 授業では怒られるのが怖かったので、居眠りをする度胸なんてなく、真面目にノートは取っていました。けれども内容は全く頭に入ってません。先生の話も興味なかったので、時間が余ればノートの片隅に落書きして……

 落書きに夢中になりすぎて、気が付けば、いつの間にか黒板が更新されてる。そんで、まだノート取ってない部分が黒板消しで消されていくのが、あ、スローモーションに見える。

「先生! まだ書き終わってません、消さないd……」

「友達とか他のクラスメイトに見せてもらってな~」

「……わかりました」

(訳:友達は他のクラスにいます。クラスメイトと話したことなんて殆どないのに、頼み事なんてできません。わかりました、諦めます。)

 

 人見知り過ぎてクラスメイトと交流することに恐怖心があり、3年間仲の良いオタク友達以外と関わるのは極力避けてました。そんな私がノート見せて!なんて気軽に頼み事をできるクラスメイトなんているわけもなく、周囲は徐々に部活動を始め、カーストが生まれ、自分はカースト最下層だということを自覚し始めて……

 

 あんまり思い出したくないので話を戻しますが、その先生は私が中学2年生の時に赴任してきて、担任になりました。専門科目は国語です。

 当時の先生のお話曰く、30歳を過ぎたばかりだけど、実は教職についたのはつい2、3年前で、大学院を卒業してから仕事に就くために勉強を始めたから、俺は遅咲きなんだ。というお話をしていて、そんな年齢からでも先生になれるんだ、とおったまげた記憶があります。いや、そんな年齢って。めっちゃ失礼極まりない。

 

 そんで、その先生。

 

 

字がめっちゃ汚かった。

 

 

 俺国語の先生なのにな!と自分で言って自分で笑っていましたが、直す気はないとはっきり断言していました。俺が文字を綺麗に書いたってお前たちの成績が上がるわけじゃないし、とか言ってた気がします。あと、文字の美しさで勉強のできる・できないとかも決まらないからみんなも気にするな、とかも。

 

 実は私も謙遜とかしてはいけないレベルで字が汚いので、その先生の言葉に地球上に棲んでいる字が汚くて悩んでいる全人類が救われると思いましたし、何より親近感が湧きました。

 

ノートに名前を書き忘れた暁には、

「これ誰のだー? 文字的に男子だと思うけど」

「すみません、私のです」

「……なんかごめん」

みたいな確定演出が毎回発生するくらいの悪筆な私。

 

 だいぶ物静かに過ごしていたし、メガネ効果のせいか真面目ちゃんに見えていたらしいので、そんな情熱的な象形文字を書く人間だと思われていなかったようです。あまり私を見くびるなよ。

 

 その先生はだいぶフランクで、人によって接し方が変わる人でもありませんでした。言いたいことをどストレートに言うし、先生というより近所のお兄さんみたいな雰囲気で、生徒にイジられたら、先生もその子をやんわりイジり返して、と。度が過ぎていたらちゃんと叱る。

 立場もあるので一定の線引きはしつつ、そういった、生徒とのコミュニケーション的な意味合いでキャッチボールができるところとかが、他の先生と比較して、すごく好印象。

 

 その先生と話す機会が突然増えたのは、私が趣味で小説を書いている、ということを先生に嗅ぎつけられてからです。

 またその出来事が、「先生という存在」に対する「憧れ」を抱いた出来事でもあります。

 

「そういえば小説書いてるんだって? 読んでみたいから持ってきて。見せてもいいな、っていうところまで書けたらでいいから」

 

 ある日、宿題のノートを返却された時に急に声をかけられて、ビビり散らかしました。誰から情報が漏れたのか、それとも授業中に内職していたのが丸見えだったのか、動揺しすぎて呂律も回ってなかったし、すんごい挙動不審だったと思います。今まで必要最低限の会話しかしてこなかった相手にそんな事突然言われたら誰だってびっくりするよ。しない人がいるなら是非インタビューさせてください。

 その反面、自分の作品を「見たい」と友達以外から言われたことがすごくすごく嬉しくて、言われた通り見せられるところまで書きあげて、持っていきました。

 でも、他人に自分の創作物を見せるのは死ぬほど恥ずかしかったです。友達にも小説は読んでもらったことなかったので、本当に初めて見せました。羞恥のあまり、毎晩毎晩、先生に渡したあのノート、発火して燃えカスになれ、でも先生の家は燃えないでくれと念じて眠りについていました。

 

 1週間後、私の手元に返ってきたのは、赤いペンで校正の入れられたノートと、A4のコピー用紙いっぱいに感想や改善点が書かれた1枚の紙でした。

 

「字は汚くて読みづらかったけど、内容はなかなか面白かった。また続きが完成したら見せてな」

 

 散々Disられるんだろうなと腹をくくっていたので、予想外の誉め言葉にこれまたびっくり。まさに、目を丸くする、という慣用句がぴったりな表情をしていたと思います。文字に関しては今までもいろんな人に汚い、読めないと言われてきて慣れっこだったので、ノーダメです。

 

 そんな言葉と一緒に返ってきたノートと紙は、今でも宝物です。

 でもごめんなさい、どこに仕舞ったのか忘れてしまいました。

 小説の続き、実は完成していたのに、見せるのが恥ずかしくて「外で書いてたら野良犬に襲われてノート食べられた」なんてバレバレの嘘ついてすみません。

 

 先にも述べましたが、その先生が「憧れ」になったのは、その出来事からです。

 普通の仕事に、部活動の顧問も担当していて忙しいのに(サッカー部の顧問やってたと思う)、授業に関係のない、生徒の個人的な作品を見て、あそこまで熱心にフィードバックをくれる、生徒のために自分の時間を割ける。その子の才能を伸ばそうとしてくれる。

 

 たった生徒一人に時間を割いてくれることの有難みを子どもながらに感じて、誰かのために時間を使う事を厭わない、こんな大人になれたらいいな、と思い始めました。

 そんで考えが安直だったので、

 じゃあ、先生みたいな大人になるためには?

 そうだ、先生と同じ、国語の先生になれば良いんだ!

 と思ったのが、「先生という存在」である教職に興味を持ったきっかけです。

 

 それ以降も、修学旅行の余興でやる演劇の台本を私に書かせるように、クラスメイトに提案してくれたり、台本の書き方を教えてくれたり。

 

 偶然、3年生に進級してからも、その先生が担任続投することが決定したので、2年間、お世話になりました。

 

 3年生の時には、歌うのも好きだった私が、死ぬ前に一度でいいから人前で歌ってみたい、と零した時に、文化祭でお披露目予定のバンドをちまちまやってるから気が向いたら来てみて、と教えてくれて、勇気を出して出向いてみれば、顧問的な役割も先生、ギターやベース、ドラムを教えているのも先生でした。

 歌いかたのレクチャーもちょこっとしてもらった記憶があります。

 

 この先生音楽もできるんかい。逆に何ができないの?

 

 そういう器用に色々な事をこなせるところも、仕事ができる大人ってこういう事なのかなあと、憧れました。

 

 色々面倒をかけてしまったと反省する反面、この先生に出会わなければ、教職に興味を持つことはなかったので、本当に感謝しかありません。

(だって教職って目指すのも、職に就いた後も大変な仕事だって聞いてたし、中にはこれ以上仕事増やすなって怒る先生もいたし)

 

 ただ、事実とはいえ、クラスメイトの前で国語以外は常に赤点だったことをバラしたことは、まだ根に持ってます。

 

 こんな感じで、あんな事、こんな事、結構はちゃめちゃな事を言うし、やるし、な先生でしたが、消極的な私を引っ張って、色んな経験ができるように手を回してくれたその先生は、私の人生において「この人に出会わなければ、今の私はない」と断言できるくらい、重要な存在の一人です。

 

 実のところ、これっきり私は会えていないので、現状が気になります。現在も沖縄で教職を続けているのか。果たして結婚できたのか。

 成人式に顔を出してくれたようですが、私は参加していないので。

 参加した元クラスメイトからの情報では「何も変わってなかった」と聞いていますが、私が実際に顔を合わせたわけではないので、真偽は定かではありません。

 

 いつか、菓子折りと一緒にお礼を伝えられる日が来るといいな。

 

 Part①の中学生時代のエピソードは一旦これにて区切りたいと思います。

 続きは来週にでも。学問と芸術にもみくちゃにされていた高校生時代に出会った恩師とのエピソードを書いていきます。

 そして、そこから生まれた「教える仕事」に対する、私が持っている憧れだったり、あんな話やこんな話もお話しできればと思います。

 

 長文、お付き合いありがとうございました。

 それでは、またどこかで。